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道教と儒教 ― 天の道の探求

道教と儒教 ― 天の道の探求

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道教と儒教 ― 天の道の探求

道教,儒教,および仏教は中国,および極東の三大宗教です。しかし仏教とは異なって,道教と儒教は世界宗教とはならず,基本的に言って,中国,およびどこでも中国文化が影響を及ぼしてきた所で存続してきました。中国大陸のこれらの宗教の信奉者の現在の人数に関する公式の数字は入手できませんが,道教と儒教は共に,過去2,000年にわたって世界人口のおよそ4分の1の人々の宗教生活を支配してきました。

1 (紹介の言葉も含めて)(イ)道教と儒教はどこで,またどの程度行なわれていますか。(ロ)その教えを調べるため,これからどの時期に注意を向けますか。

「百花斉放; 百家争鳴」。これは中華人民共和国の毛沢東が1956年に行なった話の中で使われて有名になった言葉ですが,実際には,中国の学者が西暦前5世紀から同3世紀までの中国の戦国時代を描写するのに使ってきた表現を言い替えた言葉です。そのころまでに,力のあった周王朝(西暦前1122年ごろ-256年)は衰えて,相互の結びつきの緩やかな,戦争に明け暮れる国々で成る封建制度の国家に化したため,一般民衆は大変苦しめられました。

2 (イ)どうして「百家」と呼ばれる様々な思想の学派が生じましたか。(ロ)「百家」のように出現した諸学派のうち,どれが存続しましたか。

2 戦争のもたらした混乱や苦しみのために伝統的な支配階級の権威は弱まり,一般民衆はもはや特権階級の気まぐれな考えやたくらみに追従して満足したり,その結果を黙って甘受したりすることはなくなりました。その結果,長い間抑えられていた考え方や願望が「百花」のように一斉に開花し,様々な思想の学派が生活をある程度常態に戻す手だてとして,政治,法律,社会秩序,行動,および倫理,それに農業,音楽,および文学などに関するそれぞれの考え方を発展させました。それら諸学派は「百家」として知られるようになりました。その大半は永続する影響を及ぼしませんでしたが,二つの学派が非常に際立った存在となり,2,000年以上にわたって中国の人々の生活に影響を及ぼし,やがて道教や儒教として知られるようになりました。

「道」とは何か

3 (イ)中国語の「道」に関し,中国人はどんな概念を持っていますか。(ロ)中国人は創造者の代わりに,何が万物の原因であると考えましたか。(ヘブライ 3:4と比較してください。)

3 道教(英語,Taoism)や儒教が中国人をはじめ,日本,韓国その他,周辺諸国の人々に永続する重大な影響を及ぼすようになった理由を理解するには,中国語の「道<ダオ>」に関する中国人の基本的な概念をある程度理解する必要があります。この中国語それ自体は,「道,道路,もしくは通路」という意味で,語義を拡張すると,「方法,原理,もしくは教理」をも意味します。中国人にとって,宇宙に認められる調和や秩序正しさは「道<ダオ>」,つまり一種の神意,もしくは宇宙に存在し,これを支配している法の表われでした。言い換えれば,中国人は宇宙を支配する創造者なる神を信ずる代わりに,神慮,つまり天の意志,もしくは万物の原因としての天それ自体を信じていました。

4 中国人は「道」に関する概念をどのように人間社会の営みに当てはめましたか。(箴言 3:5,6と比較してください。)

4 「道<ダオ>」に関する概念を人間社会の営みに当てはめた中国人は,何事でもそれをすべき自然で正しい道があり,何事でも,まただれでも,各々そのあるべき正しい場所や機能があると考えました。ですから,例えば,もし支配者が民を正しく扱い,天にかかわる供犠を守って,自分の義務を履行するなら,国家は平和と繁栄を享受すると考えました。同様に,民が進んで「道<ダオ>」,つまり道を求め,それに従うなら,すべてが調和し,平和になり,効を奏するのです。しかし,もし人々が道に逆らったり,抵抗したりすれば,結果は混乱と災いに終わると考えました。

5 (イ)道教は「道」に対してどんな取り組み方をしていますか。(ロ)儒教は「道」に対してどんな取り組み方をしていますか。(ハ)どんな疑問に答える必要がありますか。

5 「道<ダオ>」に従って進み,その流れを妨げないことが,中国人の哲学的な宗教思想の中心的な要素の一つです。また,道教と儒教は,同一の概念の二通りの異なった表現であるとも言われています。道教は神秘的な取り組み方をしており,元の形の道教の場合には社会を避け,自然に戻って,無為,静穏,守勢に徹することを説きます。人々がくつろいで座り,何もせずに,自然の成り行きに任せれば,万事うまく行くというのが,この教えの基本的な考え方です。他方,儒教は実用主義的な取り組み方をして,すべての人が各自自分の予定の役割を演じて,自分の義務を果たせば,社会秩序は保たれると説きます。そして,そのために,支配者と被支配者,父と子,夫と妻などの人間や社会のあらゆる関係を体系化し,そのすべてのための指針を示しています。このことから,当然,これらの二つの制度がどのようにして存在するようになったのか,その開祖はだれか,その教えは今日どのように行なわれているか,また神を探求する人間の努力に関して言えば,これらの制度は何を行なってきたかというような疑問が生じます。

道教 ― その哲学的な始まり

6 (イ)道教の開祖についてはどんなことが知られていますか。(ロ)道教の開祖はどうして老子として知られるようになりましたか。

6 初期のころの道教は宗教というよりはむしろ一種の哲学でした。その開祖である老子は当時の混乱と騒動に不満を感じ,社会を避けて自然に戻ることにより安らぎを得ようとしました。西暦前6世紀に生きていたと言われているこの人物については,あまりよく知られていません。その年代さえも確かではありません。その名は普通,「年取った主人」という意味の老子と呼ばれています。なぜなら,伝説によると,彼を身ごもった母があまり長い期間その子を宿していたため,彼が生まれた時,その髪の毛はすでに白くなっていたからです。

7 老子について「史記」からどんなことを学べますか。

7 老子に関する唯一の公式の記録は,人々から敬われた西暦前2ないし1世紀の宮廷史家,司馬遷の著わした「史記」に収められています。その資料によれば,老子の本名は李耳でした。彼は中国,中部の洛陽の帝室古文書館の館員でした。しかし,さらに重要なこととして,その記述は老子についてこう告げています。

「老子はその生涯のほとんどの期間,周に住んでいた。そして,周の衰亡を予見した時,去って,辺境の地に赴いた。関所の役人,尹喜は言った,『隠棲なさるのを喜んでおられるのですから,私のために書物を1冊著わしていただけないでしょうか』。そこで,老子は5,000語余りの言葉で記された,2編から成る1冊の書物を著わし,“道<ダオ>”と“力[もしくは徳]”に関する概念について論じた。その後,老子は去って行った。彼がどこで亡くなったかはだれも知らない」。

8 (イ)老子はどんな書物を作成したと言われていますか。(ロ)その書物にはなぜ様々の異なった解釈が施されていますか。

8 この記述を疑問視する学者は少なくありません。いずれにしても,作成されたその書物は「道徳経」として知られており,道教の主要な教本とみなされています。その文体は謎のような短い句の形をしており,中にはわずか二,三語の短い句もあります。それゆえ,また老子の時代以来,意味の相当変化した文字もあるため,この書物には様々の異なった解釈が施されています。

「道徳経」を概観する

9 老子は「道徳経」の中で「道」,つまり道についてどのように述べていますか。

9 老子は「道徳経」の中で「道<ダオ>」,つまり自然の究極の道について詳述し,それをあらゆる段階の人間の活動に当てはめました。この「道徳経」を概観してみるため,ジア・フー・フェンおよびジェーン・イングリッシュ共編の現代訳の一部を次に引用します。「道<ダオ>」,つまり道に関してはこう記されています。

「霊妙な仕方で形造られ,

天地が生ずる前に生まれたもの[があった]。……

それは万物の母であろう。

わたしはその名を知らない。

それを道<ダオ>と呼べ」― 25章。

「すべてのものは道<ダオ>から生ずる。

すべてのものは徳<テ>によって育成される。

すべてのものは物質から形造られる。

すべてのものは環境によって形成される。

ゆえに,万物は皆,道<ダオ>を敬い,

徳<テ>を尊ぶ」― 51章。

10 (イ)道教の目標とは何ですか。(ロ)道教のこの考え方は人間の行為にどのように当てはめられていますか。

10 このような謎めいた章句から,どんなことを推論できますか。道教徒にとって,道<ダオ>とは物質宇宙の生成の原因である,ある神秘的な宇宙的力です。道教の目標は,道<ダオ>を探求し,世を捨てて,自然と一体になることです。この概念は人間の行為に関する道教の考え方にも反映しています。この理想が「道徳経」の中で表現されている箇所を次に掲げます。

「あふれるほど満たすよりも思いとどまるほうが勝っている。

刃を研ぎすぎると,刃先はたちまち切れなくなる。

金やひすいを沢山蓄えても,だれもそれを守れない。

富や称号を請求しても,災害が付いて来る。

仕事をしたら,隠棲せよ。

これは天の道である」― 9章。

11 道教の理想はどのように説明できますか。

11 これら二,三の例から,道教は少なくとも最初は,基本的に言って哲学の一学派であったことが分かります。道教徒は当時の封建制度による過酷な支配のもたらした不公正,苦悩,荒廃,および無用なものに反発して,平安と調和を見いだす道は,一般民衆を支配した王や大臣たちのいなかった古代の伝統に戻ることだと考えました。彼らの理想は自然と一緒になって,静穏な,いなかの生活を送ることでした。―箴言 28:15; 29:2

道教の第二の聖人

12 (イ)荘周とはだれのことですか。(ロ)荘周は老子の最初の教えにどんなことを付け加えましたか。

12 老子の哲学は荘周,もしくは「荘師」という意味の荘子(西暦前369-286年)によって,さらに一歩前進させられました。この荘子は老子の最も傑出した後継者とみなされました。荘子は自著,「荘子」の中で,道<ダオ>,つまり道について詳述しているだけでなく,「易経」の中で最初に展開された,陰陽に関する考え方をも説明しています。(83ページをご覧ください。)荘子の考え方では,何ものも真に永遠,もしくは絶対ではなく,あらゆるものは正反対の二つの事象の間で流転しています。荘子は秋水編の中で次のように書いています。

「宇宙では何ものも永遠ではない。あらゆるものは長く生きても,結局は死ぬからである。ただ,始めも終わりもない道<ダオ>のみが永久に存続する。……人生は全速力で疾駆する駿馬に例えられよう。それは瞬時に絶えず変化してやまない。人は何をすべきか,あるいはすべきではないかということは,実際,少しも重要なことではない」。

13 (イ)荘子の詳しい説明によれば,道教は人生に関するどんな見方を示していますか。(ロ)人々は荘子のどんな夢のことをよく覚えていますか。

13 このような無為の哲学のために,道教の考え方では,だれであれ,自然により動かされているものに干渉するために行なうことはすべて,何にもならない。遅かれ早かれ,一切のものは反対の状態に戻る。どんなに耐え難い状況でもやがてより良い状況になり,どんなに快い状況でもやがて消滅してしまう。(これとは対照的な,伝道の書 5:18,19をご覧ください。)荘子の見た,ある夢は,人生に関するこの哲学的な見方を示す典型的な例で,一般の人々はこの夢で荘子のことをよく覚えています。

「かつて荘周は自分がチョウになって,独り楽しく,好きなことをして,ひらひらと軽やかに飛び回る夢を見た。彼は自分が荘周であることを知らなかった。突然,目を覚ましたところ,彼は紛れもない荘周その人であった。が,果たして,自分がチョウになった夢を見た荘周だったのか,それとも自分が荘周になった夢を見たチョウだったのか分からなかった」。

14 どんな分野も道教の影響を反映していますか。

14 この哲学の影響は,後代の中国人の芸術家が発達させた詩や絵画の形式にも認められます。(171ページをご覧ください。)しかし,道教は長い間目立たない哲学のままでとどまってはいませんでした。

哲学から宗教へ

15 (イ)道教徒は自然に魅惑されたため,どんな考えを抱くようになりましたか。(ロ)道徳経のどんな言葉がそのような考えを助長しましたか。

15 自然と一体になろうと努めた道教徒は,不老や生気回復力を得ようとする考えに取り付かれるようになりました。そして,道<ダオ>,つまり自然の道と調和した生き方をすれば,人は多分,どうにかして自然の秘密を探り出し,身体的な害,病気,および死をさえ免れるようになれるかもしれないと考えました。老子はこのようなことを問題にしませんでしたが,「道徳経」のある章句はそのような考えを示唆しているように見えました。例えば,16章はこう述べています。「道<ダオ>と一体になっていれば,永遠に存在する。また,体は死ぬが,道<ダオ>は決して過ぎ去ることがない」。 *

16 荘子の著作はどのように道教の魔術的な信仰をあおりましたか。

16 荘子もまた,次のような空論を助長しました。例えば,「荘子」に出て来る対話の中で,ある神秘的な人物が別の人にこう尋ねました。「あなたは高齢であられるのに,なお子供のような顔の色つやをしておられるのはどうしてでしょうか」。相手の人は,「道<ダオ>を学んできたのだ」と答えました。道教の別の哲学者について,荘子はこう書きました。「さて,列子は風に乗ることができたし,涼しいそよ風を受けて楽しく帆走し,15日間出かけて行っては戻ったりしていた。幸福な生活を営めるようになる人間の中で,このような人はまれである」。

17 初期の空論が高じたため,道教徒は何を行なうようになりましたか。その結果,どうなりましたか。(ローマ 6:23; 8:6,13と比較してください。)

17 このような作り話で想像力をかき立てられた道教徒は,瞑想,食養生,および肉体の腐敗や死を遅らせ得ると考えられた呼吸法などを試してみるようになりました。やがて,雲に乗って飛んだり,意のままに現われたり姿を消したりすることができ,また露や魔法の果物を食べて,聖なる山々や遠い孤島で数えきれない年月にわたって生きたという不死の人間に関する伝説が流布されるようになりました。中国の歴史によれば,西暦前219年に,秦の始皇帝は,不死の人間が住むという伝説の蓬莱の島を探して,不死の薬草を持ち帰らせるため,少年少女3,000人を乗せた船団を送り出しました。言うまでもなく,彼らはその霊薬を持って帰っては来ませんでしたが,伝承によれば,その島々に住みつき,後にそこが日本として知られるようになりました。

18 (イ)“不老不死の妙薬”の背後には道教のどんな考え方がありますか。(ロ)道教では,ほかにどんな魔術的な慣行が編み出されましたか。

18 漢王朝(西暦前206年-西暦220年)の時代中,道教の魔術的な慣行は新たな頂点に達しました。武帝は公式の国教としては儒教を奨励しましたが,肉体の不滅に関する道教の考えにすっかり魅惑され,特に錬金術により“不老不死の妙薬”を混ぜ合わせて作ることに熱中しました。道教の考え方では,生命は相対立する陰陽(女性と男性)の精力が結合する結果であるとされています。ですから,錬金術士は鉛(暗い,つまり陰)と水銀(明るい,つまり陽)とを融合させることにより,自然の過程を模倣して,その結果,不滅の妙薬ができると考えました。道教徒はまた,ヨーガに似た行法,呼吸制御法,飲食を節する食養生,および人の活力を強化して寿命を延ばせると考えられた性交技法などを編み出しました。道教の一式の用具の中には,それを使えば,姿を見えなくしたり,武器から身を守ったり,あるいは水上を歩いたり,宇宙空間を飛行したりすることができるとされる魔法の護符もありました。また,悪い霊や野獣を寄せ付けないようにするために建物や戸口の上に付ける,大抵,陰陽の印の付いた魔法の封印もありました。

19 道教はどのように組織化されましたか。

19 道教は西暦2世紀までに組織化されました。ある張陵という人が中国西部で道教の秘密結社を結成し,魔術による治療と錬金術を行ないました。その結社の成員は各々米5斗 *を料金として徴収されたので,この運動は五斗米道として知られるようになりました。老子から個人的に啓示を受けたと主張した張は,第一の“天師”になりました。張はついに命の霊薬を作ることに成功し,江西省の竜虎山から,虎にまたがって,生きたまま天に昇ったと言われています。幾世紀もの長期間続いた道教の代々の“天師”は張陵から始まっており,その各々は張の化身とされました。

仏教の挑戦を受けて立つ

20 仏教の影響を相殺しようとする道教による試みはどのようになされましたか。

20 唐王朝(西暦618-907年)の時代の7世紀までに仏教が中国人の宗教生活に食い込んできました。その対抗手段となった道教は,中国に根づいた宗教として勢力を伸ばし,老子は神格化され,道教の書物の正典化が図られました。それに,神殿や男女修行僧の僧院が建てられ,男女修行僧の集団が大体仏教の型に準じて設立されました。その上,種々の男神や女神,妖精,八仙(「八人の不死の人」の意)のような中国民間伝承の不死の人間,竈神(炉床の神),城隍神(都市の神々),門神(入口の守護神)などの多くの神々が道教の万神殿に入れられました。その結果,道教は仏教,伝統的な迷信,心霊術,および先祖崇拝などの諸要素を混合した宗教となりました。―コリント第一 8:5

21 道教はやがて何に,またどのように変身しましたか。

21 時たつうちに,道教は徐々に堕落して偶像崇拝や迷信を奉ずる制度と化してしまい,人々は各々地元の寺院で,ただ自分の好きな男神や女神を崇拝して,悪から身を守ってもらい,地上で幸運をつかむのを助けてもらうよう祈願しました。葬式を執り行なったり,墓や家や商売に適した場所を選んだり,死者と交信したり,悪い霊や幽霊を寄せ付けないようにしたり,祭りを祝ったりするほか,他の多種多様な儀式を行なうのに僧が雇われました。ですから,神秘的な哲学の一学派として始まったものが,古代バビロンの偽りの信条のよどんだ池から取り出された考えである不死の霊,地獄の火,半神半人などに対する信仰の泥沼にあえぐ宗教に変身してしまいました。

中国の他の際立った聖人

22 どんな思想を唱道する学派が中国の人々を支配するようになりましたか。どんな疑問を考慮する必要がありますか。

22 ここまでで,道教が起こり,発展し,腐敗したいきさつをたどってきましたが,これは戦国時代の中国で咲いた「百花」のほんの一つにすぎないことを思い起こさなければなりません。やがて際立った存在になった,実際,人々を支配するようになった,もう一つの学派は儒教でした。それにしても,儒教がそのように際立った存在になったのはなぜでしょうか。確かに,孔子は中国人の聖人すべての中でも中国以外の所で最もよく知られた人物ですが,孔子とは一体だれのことですか。孔子は何を教えましたか。

23 「史記」には,孔子に関するどんな個人的な詳細な事柄が記されていますか。

23 孔子に関しても,司馬遷の著書,「史記」を再び調べてみましょう。老子に関する簡単な描写とは対照的に,孔子に関しては長い伝記があります。次に,孔子の個人的な詳細な事柄に関する説明を中国人の学者,林語堂の翻訳から少し引用します。

「孔子は魯の国の昌平郷,陬邑で生まれた。……[その母は]尼丘の丘で祈り,その祈りに対する答えとして,魯の襄公の第22年(紀元前551年)に孔子を産んだ。彼は生まれた時,その頭に人目を引く渦巻きがあったため,『丘』と呼ばれた。その字は仲尼で,姓は孔であった」。 *

24 孔子の若い時代には,どんなことがありましたか。

24 孔子は生まれて間もなく,父に先立たれましたが,母は貧しかったのに,どうにかその子に正式の教育を受けさせました。彼は少年のころ,歴史や詩や音楽に対する強い関心を現わしました。儒教の「四書」の一つである「論語」によれば,孔子は15歳の時に学問の研究に専念し,17歳で祖国,魯の政府の小役人の職を与えられました。

25 孔子はその母の死からどのような影響を受けましたか。(伝道の書 9:5,6; ヨハネ 11:33,35と比較してください。)

25 こうして経済事情が改善されたらしく,19歳で結婚し,翌年,息子をもうけました。しかし,20代の半ばにその母が亡くなりました。その死は大変大きな影響を与えたようで,古来の伝統を綿密に守っていた孔子は公職を退いて,亡き母をその墓前で27か月間悼み,中国人に孝行の古典的な手本を残しました。

教師としての孔子

26 孔子はその母の死後,どんな仕事に取り組みましたか。

26 その後,孔子は家族を後にし,教師の仕事としての遊説の旅に上りました。彼の教えた論題には,音楽,詩,文学,市政学,倫理学,および科学,もしくは当時それとみなされていたものが含まれました。孔子はかなり名を上げたに違いありません。一時期,そのもとに3,000人もの大勢の門人がいたと言われているからです。

27 教師としての孔子に関しては,どんなことが知られていますか。(マタイ 6:26,28; 9:16,17; ルカ 12:54-57; ヨハネ 4:35-38と比較してください。)

27 東洋では孔子は主に傑出した教師として敬われています。事実,山東省,曲阜<チュイフー>にある,その墓の墓碑では,彼は簡単に,「古代のいと聖なる師」と呼ばれています。西洋の一著述家は孔子の教え方についてこう記しています。「彼は『人生に関する自分の考え方を吸収しようとしていた者たちを同伴して,一つの場所から別の場所へと巡って行った』。一行の旅がどれほどの距離の場合でも,いつでも彼は牛車に乗った。その動物の歩みは遅かったので,門弟たちは歩いて付いて行くことができた。その講義の論題はしばしば旅の途上での出来事から思いついた事柄だったようである」。これとは別ですが,興味深いことに,イエスも後期には同様の方法を取られました。

28 中国の著述家,林語堂によれば,孔子はどうして大いに尊敬される教師になりましたか。

28 孔子が東洋人の中でも大いに尊敬される教師になったのは,彼自身,それも特に歴史や倫理学の優れた研究者だったことによります。林語堂は,「孔子は当時の最大の賢人だったというよりも,むしろ最も博学な学者で,古典や古代の学問について教えることのできた当時ただ一人の人物だったゆえに,人々は彼に引き付けられた」と書いています。この好学心を儒教が他の思想の学派に対して勝利を収めた主要な理由として指摘した林は,この問題を次のように要約しました。「儒教の教師には教えるべき明確な事柄があり,孔子の門弟たちには学ぶべき明確な事柄,つまり歴史的な学問があったが,他の学派は単に勝手な意見を吹聴するのを余儀なくされたのである」。

「天がわたしを知っている!」

29 (イ)孔子の一生の念願は何でしたか。(ロ)その念願をどのようにして果たそうとしましたか。結果はどうでしたか。

29 孔子は教師として成功したにもかかわらず,その教える業を一生の仕事とは考えませんでした。孔子は支配者たちが自分やその門弟たちを雇って政府の役職に就け,倫理および道徳に関する自分の考え方を当てはめさえすれば,当時の苦悩する世界を救済できると考えました。そのために,最も親しかった何人かの少数の弟子たちを伴って,故国,魯を去り,政府や社会秩序に関する自分の考え方を採用する賢い支配者を見つけるため,諸国を巡って旅をしました。結果はどうでしたか。「史記」はこう述べています。「ついに彼は魯を去り,斉で見捨てられ,宋と衛では追い出され,陳と蔡の間では食糧が欠乏して困窮した」。14年間の流浪の末,落胆して魯に戻りましたが,完全に失意してしまったわけではありませんでした。

30 儒教の基盤となっているのはどんな著作ですか。

30 晩年の孔子は著作と教育に専念しました。(177ページの囲み記事をご覧ください。)そして,自分の微賤な身分を確かに嘆いたようですが,こう述べました。「わたしは天に向かって不平を言わない。人にも不平をこぼさない。わたしはこの地上で研究を続行し,上なる天と接触している。天がわたしを知っている!」そして,ついに西暦前479年,73歳で亡くなりました。

孔子の思想の真髄

31 孔子は社会秩序の確立を図る方法として,何を説きましたか。

31 孔子は学者,ならびに教師として秀でていましたが,その影響は決して学問の世界だけに限られていたわけではありませんでした。実際,孔子が目指したのは,単に処世訓,もしくは道徳について教えるだけでなく,当時,封建領主間の絶え間ない戦争で分裂していた社会の平安と秩序を回復することでした。その目標を達成するため,孔子は,皇帝から一般庶民に至るまで,すべての人がそれぞれ社会の中で果たすべく期待されている役割を果たし,ふさわしく生活しなければならないと説きました。

32,33 (イ)孔子は礼に関するどんな概念を持っていましたか。(ロ)礼を実践すると,どんな結果になると,孔子は考えましたか。

32 この概念は儒教では礼として知られています。礼とは適正,礼儀,および物事の秩序を意味し,その適用範囲を広げると,儀礼,儀式,および敬礼を意味します。孔子は,「この重要なとは何か」という問いに答えて,次のように説明しました。

「人々が生きるためのよりどころとしている事柄すべての中で最も大事なのはである。なくしては,宇宙の諸霊の正しい崇拝の仕方,あるいは王や大臣,支配者や被支配者,長老や年少者の正しい地位を確立する方法,または男女,親子,兄弟間の倫理的な関係を確立する方法,もしくは家族内の種々の関係のあり方を識別する方法は分からない。それゆえに,君子はを大いに重視するのである」。

33 ですから,それは真の君子が自分の社会的な交渉すべてを遂行する際のよりどころとすべき処世訓です。孔子は,万人が努力してそうする時,「家族,国家,および世界の万事が正しくなる」と述べましたが,それこそ,道<ダオ>,つまり天の道が行なわれる時なのです。しかし礼を表わすには,どうすべきですか。ここで,儒教のもう一つの中心的な概念である仁,つまり人間愛,もしくは慈愛という考えを取り上げてみることにしましょう。

34 仁に関する儒教の概念について述べてください。それは社会悪に対処する上で,どのように役立ちますか。

34 礼は外的な規則による抑制を強調しますが,仁は人間性,もしくは内なる人と関係があります。儒教の,それも特に孔子の主立った弟子,孟子の表現したこの概念は,人間の性は基本的には善であるということです。ですから,すべての社会悪の解決策は自己修養で,これは教育と知識から始まります。「大学」の第1章は次のように始まっています。

「真の知識を勝ち得ると,意志は誠実なものとなり,意志が誠実であれば,心は正しくなる。……心が正しければ,個人の生活は錬磨され,個人の生活が錬磨されれば,家族生活は調整される。家族生活が調整されれば,国民生活は秩序正しくなり,国民生活が秩序正しければ,この世は平和になる。皇帝から庶民に至るまで,人はすべて,個人の生活を錬磨することを基本,もしくは土台とみなさなければならない」。

35 (イ)礼と仁の原理はどのように要約できますか。(ロ)人生に関する中国人の見方はこのすべてをどのように反映していますか。

35 ですから,孔子によれば,礼を守り行なえば,人々はあらゆる状況で正しく振る舞うことができるようになり,仁を培えば,人々は他の人を皆,親切に扱うようになります。その結果,理論的には,社会は平和で,調和が保たれます。礼と仁の原理に基づく儒教の理想は,次のように要約できるでしょう。

「父は親切を示し,子は孝行を尽くし,

長兄は優しさを,年若い者は謙遜さと敬意を示し,

夫は義にかなった行状を,妻は従順を示し,

長老は人情のある思いやりを示し,年少者は敬意を表し,

支配者は情け深さを,大臣や臣民は忠節を示す」。

このすべては,大抵の中国人や中には他の東洋人も,なぜ家族のきずな,勤勉さ,教育,および自分の立場をわきまえて行動することなどを非常に重視するかを理解する助けになります。儒教のそれらの概念は何世紀にもわたって教え込まれたため,善かれ悪しかれ,中国人の意識に深く刻み込まれてきました。

国教になった儒教

36 儒教はどのようにして国教としての地位を得ましたか。

36 儒教の台頭と共に,「百花斉放」の時代は終わりを告げました。漢王朝の歴代の皇帝は,王権を確固たるものにするのに必要な格好の方式を支配者に対する忠節を説く儒教の教えのうちに見いだしました。道教に関連して既に言及した武帝のもとで,儒教は国教の地位に格上げされ,儒教の経典に精通した者のみが国の官僚として選抜され,政府の役職に就きたいと思う者は皆,儒教の経典に基づく国家試験に合格しなければならなくなり,また儒教の儀式や儀礼が帝室の宗教になりました。

37 (イ)儒教はどのようにして一種の宗教になりましたか。(ロ)実際,儒教はなぜ単なる哲学以上のものですか。

37 こうした事態の変化は,中国社会における儒教の地位を引き上げるのに大いに役立ちました。漢王朝歴代の皇帝は孔子の墓前で犠牲をささげる伝統を作り出しましたし,孔子には種々の敬称が与えられました。その後,西暦630年に唐の皇帝,太宗は,同帝国内のすべての省や郡に国立孔子廟を建立し,定期的に犠牲をささげるよう命じました。孔子は事実上,神の地位に格上げされ,儒教は道教や仏教とほとんど見分けられないようになりました。―175ページの囲み記事をご覧ください。

東洋の知恵の遺産

38 (イ)1911年以来,道教と儒教はどうなりましたか。(ロ)しかし,これらの宗教の基本的な概念については依然として何と言えますか。

38 中国の王朝支配が終わりを告げた1911年以来,儒教や道教は大いに批判され,迫害をさえ受けるようになりました。道教はその魔術的,迷信的な慣行ゆえに信用を失い,また儒教は人々,特に女性を服従させておくため,奴隷のような物の見方を奨励する,封建主義的な教えという烙印を押されました。しかし,こうして公式に非難されたにもかかわらず,これらの宗教の基本的な概念は中国人の脳裏に非常に深く入っているため,依然として多くの人々をしっかりと支配しています。

39 ある新聞の報告は,中国大陸における宗教の迷信的な慣行について何と述べていますか。

39 例えば,1987年にカナダのグローブ・アンド・メール紙は,「沿岸地方で盛んになった,北京<ペキン>ではまれな中国の宗教儀式」という見出しで,無神論に基づく支配が中国大陸で40年近く行なわれた後でも,葬式,寺院での礼拝,および数多くの迷信的な慣行はいなかの地方で依然として普通に行なわれていると伝えました。その報告は,「大抵の村には,先祖の墓から新しい家や居間の家具に至るまで,あらゆる物事の一番縁起のよい場所を決めるために風と水の力の読み方を知っている,普通,年配の住人である“風水”先生がいる」と述べました。

40 台湾省ではどんな宗教的な慣行が見られますか。

40 道教や儒教は,ほかにも伝統的な中国文化が存続している所ならどこにでもあります。台湾省には,張陵の子孫と称して,道教の僧(道士)を任命する権能を持つ“天師”を勤める,ある男の人がいます。また,天上聖母として一般に知られている,人気のある女神,媽祖は同島と船員や漁師の守護聖人として崇拝されています。一般庶民は大抵,河川や山々や星の霊,あらゆる職業の守護神,および健康や幸運や富の神々に供え物や犠牲をささげることに余念がありません。 *

41 儒教は今日,宗教としてどのように行なわれていますか。

41 儒教についてはどうですか。その宗教としての役割は国家的な記念碑としての地位に格下げされました。中国大陸の孔子の生地である曲阜<チュイフー>では,国が孔子の廟とその屋敷を観光名所として維持しています。「中国再建」誌によれば,そこでは,「孔子崇拝の儀式の再演」が行なわれています。それに,シンガポール,台湾省,香港<ホンコン>および東アジアの他の場所の人々は今でも孔子の誕生日を祝っています。

42 儒教や道教はまことの神を探求する努力の点で,どのように不十分なものとなっていますか。

42 儒教や道教を調べてみると,人間の知恵や推論に基づく制度は,それがどれほど論理的で,善意に基づくものであっても,まことの神を探求する努力の点では結局,不十分であることが分かります。なぜでしょうか。なぜなら,一つの肝要な要素,すなわち人格神の意志や要求が考慮されていないからです。儒教は善を行なうよう動機づける力として人間性を頼りにし,道教は自然そのものを頼りにしていますが,これは誤った信頼です。なぜなら,それは創造者ではなく,むしろ創造されたものを崇拝することにほかならないからです。―詩編 62:9; 146:3,4。エレミヤ 17:5

43 中国人の宗教的な伝統は,まことの神を探求する点で,どのように人々に不利な働きをしてきましたか。

43 一方,先祖崇拝や偶像崇拝の伝統,宇宙を意味する天に対する崇敬の念,および自然の霊に対する尊崇の気持ち,それにそのような崇拝と結びついている儀礼や儀式が中国人の考え方に非常に深く根づいてきたため,そのようなことが無言の真理として受け入れられています。人格的な神,もしくは創造者について中国人と話し合うのは非常に難しい場合が少なくありません。なぜなら,そのような概念は中国人にとって非常に異質なものだからです。―ローマ 1:20-25

44 (イ)理性のある考え深い人たちは自然の道に見られる驚異に対して,どのように反応してきましたか。(ロ)わたしたちは何をするよう励まされていますか。

44 自然が偉大な驚異と知恵で満ちており,わたしたち人間が理性や良心という驚くべき能力を付与されていることは否定すべくもありません。しかし,仏教に関する章で指摘したように,自然界に見られる驚異に接した,理性のある考え深い人たちは,設計者,もしくは創造者が存在するに違いないという結論に達してきました。(151ページをご覧ください。)そういう事情ですから,創造者を探求するよう努力すべきなのは当然なことではないでしょうか。実際,創造者はそうするよう次のように勧めておられます。「あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる」。(イザヤ 40:26)そうすれば,創造者,すなわちエホバ神とはだれかということだけでなく,その方はわたしたちの将来のために何を備えておられるかということも分かるでしょう。

45 次の章では東洋のほかのどんな宗教を考慮しますか。

45 東洋の人々の宗教生活で主要な役割を演じてきた仏教,儒教,および道教のほかに,もう一つの宗教,日本人の独特の宗教,つまり神道があります。それはどのように異なっていますか。その源は何ですか。それは人々をまことの神に導きましたか。このことは次の章で考慮いたしましょう。

[脚注]

^ 15節 林語堂はこの句をこう訳しています。「道<ダオ>と一致していれば,その人は永遠に存在し,全生涯にわたり害から守られる」。

^ 19節 1斗(中国)は乾量の単位で,約8.8㍑。

^ 23節 「孔子」のことを英語で“Confucius”と言いますが,この語は「孔夫子,つまり孔師」という意味の中国語“K'ung-fu-tzu”(クン・フー・ツー)のラテン語の翻字から来ています。16世紀に中国にやって来て,孔子をローマ・カトリック教会の“聖人”の列に加えるようローマ法王に推薦したイエズス会の修道士たちが,このラテン語化された名称を造り出しました。

^ 40節 台湾省の天道と呼ばれる道教徒の一教団は自分たちの宗教を道教,儒教,仏教,キリスト教,およびイスラム教の五つの世界宗教を融合したものであると唱えています。

[研究用の質問]

[175ページの囲み記事]

儒教 ― 哲学,それとも宗教?

孔子は神についてほとんど何も述べていないため,儒教は単なる哲学であって,宗教ではないと考える人は少なくありませんが,孔子の言行は彼が宗教心の持ち主だったことを示唆しています。このことは次の二つの点から分かります。第一に,孔子は中国人により天と呼ばれている宇宙最高の霊的な力に対する敬虔な恐れを抱いており,その天をあらゆる徳と道徳的な善の源とみなし,その意志が万物を導いていると感じていました。第二に,天の崇拝と亡くなった先祖の霊に関係のある儀礼や儀式を綿密に執り行なうことを大いに重視しました。

孔子はこのような考え方を決して一種の宗教として唱道しようとはしませんでしたが,代々の中国人にとって,それは宗教とは一体どういうものかを示す事柄となりました。

[177ページの囲み記事/図版]

儒教の四書五経

四書

1. 大学 君子の教養の基礎で,昔の中国の学童が最初に勉強した教本

2. 中庸 節度を守って人間の本性を陶冶することに関する論説

3. 論語 儒教思想の主要な源と考えられる,孔子の言辞の集成

4. 孟子 孔子の最高の門弟,孟子の著述,および言辞の集成

五経

1. 詩経 初期の周時代(西暦前1000-600年)の日常生活を描写したものを含む305編の詩集

2. 書経 殷王朝(西暦前1766-1122年)をはじめとして,17世紀にわたる中国の歴史を扱った史書

3. 易経 陽の記号 ― と陰の記号 – – をいずれか,あるいはその両方を色々6本組み合わせてできる64組,もしくは64卦の意味の解釈に基づく占いの書

4. 礼記 儀式や儀礼に関する規則集

5. 春秋 孔子の生国,魯の西暦前721-478年の歴史を扱った史書

[図版]

上は五経で,左は180ページに引用されている大学(四書の一つ)の一部

[163ページの図版]

「道<ダオ>」『人の歩むべき道』

[165ページの図版]

水牛の背に乗る道教の哲学者,老子

[166ページの図版]

台湾省の「天上聖母」,媽祖のための道教の寺院

[171ページの図版]

霧でかすんで見える山々,静かな川,傾いた枝振りの木々,隠棲する学者 ― 自然と調和した生活という道教の理想を反映する中国の風景画の一般的な画題

[173ページの図版]

左は長寿の神と共にいる不老不死の八仙を表わした古い道教の彫像。

右は葬儀を執り行なっている,盛装した道教の僧

[179ページの図版]

中国の第一級の聖人である孔子は,道徳および倫理の教師として敬われています

[181ページの図版]

韓国,ソウルの14世紀の儒教教育の中心地,成均館で音楽に合わせて行なわれる祝祭の多年受け継がれてきた儒教の儀式

[182ページの図版]

左から示されていますが,仏教徒,道教徒,あるいは儒教徒のいずれを問わず,典型的な中国人は家では先祖に敬意を表し,富の神を崇拝し,祭日には寺院で犠牲をささげます